━ 藤田嗣治 (ふじたつぐはる) の 略歴 ━ |
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1886年 |
明治19年11月27日東京市牛込区新小川町に生まれる。
父、嗣章は当時陸軍一等軍医で領有後間もない台湾、朝鮮の衛生行政に尽力し、大正元年、陸軍軍医総監に栄進した |
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1893年 |
東京高等師範学校付属小学校に入学。 |
1900年 |
同中学校に入学。 |
1905年 |
同中学校を卒業。
東京美術学校予備科に入学。
東京美術学校西洋画科に入学。 |
1907年 |
精勤賞を受ける。 |
1910年 |
東京美術学校西洋画科本科を卒業。
白馬会第13回絵画展覧会に「山より」「女」が入選。
美術学校卒業後、和田英作教授の助手として帝国劇場の壁画や背景の制作を手伝う。
この頃から3年続けて当時の文展に出品したが、3回とも落選。 |
1911年 |
東京勧業展覧会に「青梅」「山家」「上野原」「駅」出品。 |
1912年 |
第2回東京勧業博覧会に「午後の日」「宿裏」を出品。
光風会第1回絵画展覧会に「清水湾」「帝国劇場」「南国」が入選。 |
1913年 |
門司から日本郵船三島丸で渡仏。この年の末モジリアニ、スーチンの知り合う。 |
1914年 |
しきりに立体派風の制作を試みる。 |
1917年 |
シェロン画廊で初の個展を開く。
ピカソの友人である批評家、アンドレ・サルモンが目録に序文を書く。 |
1918年 |
シェロン画廊で2回目の個展。
この頃からフジタの名が広まる。 |
1919年 |
初めてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選して、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出した。 |
1920年 |
渡仏以来の研究の結晶である裸体を秋のサロンに出品。 |
1921年 |
サロン・ドートンヌの審査員に挙げられ、いよいよ黄金時代が展開する。
画商が藤田の作品を奪い合った。 |
1922年 |
第4回帝展に「我が画室」(1921)を出品。 |
1923年 |
サロン・ドートンヌ第16回展に「五人の裸婦」を出品。
サロン・デ・チュイルリーの会員となる。 |
1925年 |
第5回帝展委員。帝展に「静物」(1922)を出品。 |
1927年 |
銅版画1点、ルーブル美術館に収められる。 |
1929年 |
17年ぶりに帰国。
東京朝日新聞社屋で個展を開き、大作「構図」(1928)ほか鉛筆デッサン50余点、版画20点を出品。
ひきつづき2回目の個展を日本橋三越で開催。
「舞踏会の前」(1925)ほかデッサン、版画など数十点を出品。 |
1930年 |
パリに帰る。
ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3ヶ月間制作を行い、さらにシカゴに1ヶ月滞在する |
1931年 |
パリに引き揚げた後、ブラジルに旅立つ。 |
1932年 |
アルゼンチンに入り、さらにボリビア、ペルー、チューバなどを回り、メキシコに着き7ヶ月滞在する。 |
1933年 |
ニューメキシコ、アリゾナからカリフォルニアに渡って4ヶ月を過し、11月に帰国。 |
1934年 |
日動画廊で個展。二科会会員に推挙される。
大礼記念京都美術館開館記念京都市美術展に「メキシコ」を出品。
第21回二科美術展覧会に「メキシコのマドレーヌ」「町芸人」「カーニバルの後」など27点を特別陳列この年、メキシコ風のアトリエを建てる。 |
1935年 |
大阪の十合百貨店特別食堂に壁画を制作。
銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作。 |
1937年 |
横光利一原作「旅愁」の挿絵を東京朝日新聞に連載。
麹町下六番町に京風の純日本式住宅を新築。この年「自画像」(1928)がパリの国立近代美術館に収められる。 |
1938年 |
沖縄に遊ぶ。
琉球作品発表展に「海辺の墓」「琉球の女」など20余点を出品。 |
1939年 |
渡米したのち、パリに着く。 |
1940年 |
第2次世界大戦の戦火迫るパリを脱出し、帰国。 |
1941年 |
良き理解者であった父嗣章が死去する。
帝国芸術院、国際文化振興会から文化使節として仏印に派遣される。 |
1947年 |
ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を博する。 |
1948年 |
近代日本美術総合展に出品。 |
1949年 |
羽田から空路渡米。フランス入国の許可も受けた。
「日本画壇も国際的水準に達することを祈る」というのが故国に残す言葉であった。
ニューヨーク滞在中、51番街の画廊で近作を開催する。 |
1951年 |
秘蔵の労作「我が室内」「アコーデオンのある静物」などをパリの国立近代美術館に寄贈。 |
1955年 |
フランス国籍を取得。 |
1959年 |
カトリックの洗礼を受ける。
洗礼名「レオナルド」。 |
1960年 |
新宿伊勢丹で藤田嗣治展を開催。 |
1966年 |
第2回近代日本洋画名作展に出品。 |
1968年 |
1月29日、81歳で死去。
遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。 |