━ モーリス・ユトリロ [ Maurice Utrillo ] の略歴 ━ |
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1883年 |
12月26日、モンマルトルのポトー通り8番地でマリー・クレマンチーヌ・ヴァラドン(通称シュザンヌ)は私生児を出産、モーリス(ユトリロ)と名づける。母マリーは13歳の頃から働きはじめ、お針子、給仕など職を転々とし、モーリスを出産した頃はシャヴァンヌ、ルノアール、ドガなどのモデルとして雇われ、自らも絵筆を執り始めていた。 |
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1886年 |
祖母、母、子の3人はモンマルトルのトゥラック通りに住む。マリーは、ロートレックと交際を深め、この頃からシュザンヌ・ヴァラドンと呼ばれるようになる。 |
1891年 |
スペイン人ジャーナリスト、ミゲル・ユトリロはモーリスを法的に認知し、以後ユトリロ姓を名乗る。 |
1894年 |
プルリマール学校に入学。 |
1896年 |
母シュザンヌ・ヴァラドンはポール・ムージスと結婚し、コルトー通り12番地にアトリエを持つ。ユトリロはパリ郊外のピェルフィットで祖母に淋しく育てられる。 |
1897年 |
パリ市内のロラン中学校に入学する。カフェでは飲酒をおぼえる。 |
1899年 |
中学校を中途退学する。 |
1900年 |
義父ムージスの伝でリヨン銀行に就職するが、すぐに問題を起こして退職。以後いくつかの仕事に就くも長続きしなかった。 |
1901年 |
パリからピェルフィットに戻る。飲酒癖と奇行は直らず、パリのサン-タンヌ病院にアルコール中毒患者として入院。アル中の対症療法として絵を描き始める。 |
1903年 |
一家はパリの郊外モンマニーに移転。【モンマニー時代】(〜1907) |
1904年 |
軍隊に召集されるが、兵役免除となる。 |
1905年 |
作品が額縁屋のアングリに初めて売れる。 |
1906年 |
イタリアからやって来たモディリアーニと知り合う。 |
1908年 |
この年、600点以上の作品を描く。 |
1909年 |
母シュザンヌ・ヴァラドンはムージスと離婚し、ユトリロより3歳年下の画家アンドレ・ユッテルと同棲。ユトリロや祖母マドレーヌと共にパリに住む。 |
1910年 |
アル中治療のためサンノワの療養所に入院。【白の時代】(〜1914) |
1911年 |
ますますアルコールに溺れる。軽犯罪でパリのラ・サンテ刑務所に一ヶ月入る。
母の許を飛び出し、セザール・ゲーの店「カス・クルート」や女主人マリー・ヴィジェの店「美しきガブリエル」に入りびたりになる。 |
1912年 |
再度、サンノワ療養所に入院。ブルターニュ地方へ転地療養するも精神疲労ははなはだしく逆効果となる。 |
1913年 |
ユージェーヌ・ブロ画廊で初個展。展示31点のうち売れたのは2点。
コルシカ島に旅行。 |
1914年 |
相変わらず酒びたりの生活が続く。【色彩の時代】(〜1925) |
1915年 |
兵役に志願するも、免除となる。
祖母マドレーヌ死去。 |
1916年 |
アルコール中毒が悪化し、4ヶ月にわたってヴィルジュイフの精神病院に入院。
その後、入退院を繰り返す。 |
1919年 |
ルプートル画廊で個展。大評判となり、華々しい脚光を浴びる。 |
1921年 |
また軽犯罪を犯し、ラ・サンテ刑務所に拘留。釈放後はユッテルの配慮により幽閉状態の生活を過ごすが、作品の評価はいよいよ高まる。 |
1928年 |
レジョン-ドヌールの5等級勲章を授与される。 |
1933年 |
リヨンで洗礼を受ける。 |
1935年 |
12歳年上のリュシー・ヴァロールと結婚する。 |
1937年 |
パリ郊外のル・ヴェジネに「ラ・ボンヌ・リュシー」と名づけた邸宅を構える。
妻リュシーも絵を描くようになる。 |
1938年 |
母シュザンヌ・ヴァラドンが脳出血で死去(72歳) |
1948年 |
友人にして義父だったアンドレ・ユッテルが肺炎で死去。 |
1955年 |
パリ名誉市民賞受賞。
11月5日、静養先の大西洋岸ダックスのホテルで肺充血のため死去。遺骸はサクレクールの納骨堂に安置されたあと、サン・ヴァンサン墓地に埋葬された。 |