━ ラウル・デュフィ [ Raoul Dufy ] の略歴 ━ |
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1877年 |
6月13日フランスのル・アーヴルに生まれる。 |
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1891年 |
家計と助けるため、コーヒー輸入商社の事務員になる。 |
1892年 |
ル・アーヴルの市立美術学校に入学し、シャルル・リュイエリの夜学に通う。
ル・アーヴルに移住していたブラックと知り合う。 |
1895年 |
1898年までアカデミックな水彩画を描く。
家族の肖像や自画像を油彩で描く。 |
1898年 |
〜99年、兵役に従事する。 |
1900年 |
ル・アーブル市から奨学金が支給されてパリのエコール・デ・ボザールに入学し、レオン・ボンナのアトリエで学ぶ。
フランス美術家展に出品、入選する。 |
1901年 |
《ル・アーブルの夕暮れ》をサロン・デザルティスト・フランセに初出品。 |
1902年 |
モンマルトルに画廊を開いていたベルト・ヴェイルに、初めてデュフィの作品(パステル画)が買われる。 |
1903年 |
サロン・デ・サンデパンダン展に初出品し、モーリス・ドニに油彩画を1点購入する。 |
1904年 |
パリのブルボン河岸に住み始める。
パリのベルト・ヴェイル画廊で行われたグループ展に初出品。 |
1905年 |
サロン・デ・サンデパンダン展に出品されていたマティス《豪華・静寂・快楽》に深く魅了され、印象派的実写を棄ててフォービズに傾倒してゆく。画商に見捨てられたため作品が売れなくなり、のち数年間は経済的に非常に不安定になる。 |
1906年 |
サロン・ドートンヌに出品、その後、定期的に出品する。
マルケとオンフルールやトゥルーヴィルで、フリエスとファレーズで制作。
ベルト・ヴェイル画廊で初の個展を開く |
1907年 |
木版画の制作を始める。 |
1908年 |
ジョルジュ・ブラックとレスタックで制作、立体派的な構図を研究。 |
1909年 |
サン・ミッシェル広場に近いセギエ通りの新しいアトリエに居を定める。
オトン・フリエスとミュンヘンを訪問する。
婦人服デザイナーのポール・ポワレと知り合う。 |
1911年 |
ピカソが断ったとされるアポリネール『動物誌』の木版挿絵を制作し、この年に出版される。
ニース出身のウジェーヌ・ブリッソン(通称エミリエンヌ)と結婚。
モンマルトルのゲルマ小路の新しいアトリエに居を構える(デュフィは生涯、ここを手放さなかった)。
ポール・ポワレの要望で、プリント生地のデザイン下絵を描く。 |
1912年 |
リヨンの絹織物商とデザイナーとして契約。 |
1913年 |
南仏イエールに滞在。マルセイユ、アヴィニョン、トゥーロン、イエール、ヴェニスを旅する。 |
1915年 |
15〜19まで愛国的主題や本の挿絵など、多くの木版画を制作する。 |
1916年 |
エミール・ヴェルハーレン〈フランスとブラバン地方の伝説詩集〉の挿絵のため木版画を制作。 |
1917年 |
《文学・美術年鑑》の挿絵を木版画で制作。 |
1918年 |
戦争博物館の図書館員であるカミーユ・ブロックから同館の職に任命される。 |
1919年 |
ヴァンスに滞在。
木版画をやめて石版画(リトグラフ)を始める。
アンナ・ノワイエ〈運命〉に水彩画で挿絵を描く。 |
1920年 |
ステファヌ・マラルメ〈牧歌〉のためリトグラフ(石版画)の挿絵を制作。 |
1921年 |
ベルネーム・ジュヌ画廊で個展を開催。
装飾美術家展に初出品。 |
1922年 |
シシリー島に滞在。
デュフィの主要なコレクターとなるアレクサンドル・ルディネスコと知り合う。
競馬に通う。
絵画の中にムーブマン(動き)に関心を抱く。
水彩画法を多く用いるようになり、のちにデュフィ代表的な表現手段となる。 |
1924年 |
ロンドンに滞在する。
パリのオペラ座で上映される「ロメオとジュリエット」の舞台、衣装デザインの下絵を制作する。 |
1925年 |
国立図書館で開催される〈オリエンタル展〉のポスターを手掛ける。 |
1926年 |
カンヌに滞在。
詩人ギュール・アポリエールの『虐殺された詩人』の挿絵としてリトグラフ16点を制作。 |
1927年 |
ニースで一連の油絵と水彩画を制作。 |
1928年 |
ベルギーに滞在。
クリスティアン・セルヴォスがデュフィ論を発表。
11月にボナティック画廊で個展を開催。
アントウェルペンの[セレクシオン]誌がデュフィ特集号。
ドーヴィルで競馬場、レガッタの連作を開始する。 |
1929年 |
ドーヴィルとトゥルーヴィルに滞在。
パリをテーマとするタピスリーの下絵を制作する。 |
1930年 |
ドーヴィルで制作。
ヴォラールがデュフィによる14枚のエッチング挿絵を入れたユジェーヌ・モンフォールの『美少女』を出版。
ベル・ド・テュリックがデュフィ論を発表。
ブディ画廊で個展を開催。
《木立のある通り》によりカーネギー賞を受賞する。 |
1931年 |
フェルナン・フルーレが『ラウル・デュフィ讃』を出版。 |
1932年 |
リュクサンブール美術館に〈ドーヴィルのパドック〉が寄贈される。 |
1933年 |
ニース、イエール、カンヌに赴く。 |
1934年 |
ワイト島のカウズに旅行。
ブリュッセルの王立美術館で個展。 |
1935年 |
科学者ジャック・マロジェと交際を通して、彼が発明したメディウムを知り、デュフィは以後、ほとんどの作品にこのメディウムを使用するようになる。この新しい手法によって、顔料の光の透過性が増した。 |
1936年 |
パリ万国博覧会電気館の大壁画(電気の精)に着手。
ロンドンに旅行し、各地で個展を開く。
パリ・シャイヨー宮のヌーヴォ・テアトルのバーの喫煙室の半円形の壁画〈パリから海に向かって流れるセーヌ河〉の制作依頼を受ける。 |
1938年 |
パリ植物園猿類館の装飾画、及びシャイヨー館内の喫煙室を飾る(セーヌ風景)を完成させる。
この頃からリューマチ(関節炎)に悩む。 |
1940年 |
ドイツ軍侵攻とともにニース、ついでセー・ペルピニアンに避難する。
リューマチの治療を受けながら制作を続ける。 |
1941年 |
その後50年まで住むことになるペルピニャンに移る。
(41〜46年ジャンヌ・ダルク通りのアトリエ、46〜50年アラゴ広場の一角)
ルイ・カレがデュフィのパリでの画商となる。 |
1943年 |
「オーケストラ」「アトリエ」の連作を制作する。
《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》をルイ・カレ画廊で発表。
この夏、モンソネスに滞在。
麦打ちに立会い、麦打ちと農夫の遊歩道シリーズを始める。 |
1944年 |
コメディー・フランセーズ公演のためサラクルー作『ル・アーブルの許婚者たち』の舞台装置を制作。 |
1945年 |
ヴァンスに滞在。
黒い貨物船の連作を始める。 |
1946年 |
単色の絵画が初めて制作される。
サロン・デ・テュイルリーに初出品。 |
1947年 |
デュフィ考案の新技法で織るタピスリーの下絵を制作。
翌年、ルイ・カレ画廊で展示される。 |
1948年 |
コクトーがデュフィ論を発表。 |
1949年 |
リューマチに悩みながら制作を続ける。
ニューヨークのルイ・カレ画廊でデュフィ大回顧展開催される。 |
1950年 |
ボストンに渡り、ユダヤ人記念病院でリューマチの治療(コーチゾン療法)をうける。
ロンドンのルフェーブル画廊で個展。
コレット『植物図鑑』挿絵を水彩で制作。 |
1951年 |
アリゾナのタクソンに滞在後、帰仏。
ピエール・クールティオンがデュフィ論を発表。 |
1952年 |
ヴェネツィア・ビエンナーレのフランス特選展に出品し、デュフィが国際大賞を受賞する。
乾燥した気候が彼の健康に良いということで、フォルカルキエ(オート=プロヴァンスのアルプ県)に居を構える。 |
1953年 |
コペンハーゲンで個展。
心臓麻痺のため3月23日に死去。
ニースのシミエ修道院墓地に埋葬される。 |
父のレオン=マリウス・デュフィは休日には教会の聖歌隊を指揮し、オルガンを弾いた。その息子であるラウル・デュフィには3人の弟と5人の妹がいた。デュフィ家は経済的に苦しかったが、家族全員が音楽に親しむ芸術的家庭であった。後に2人の弟が音楽家に、ラウル(デュフィ)ともう一人の弟が画家となる。 |